業務連絡(日記ではないです)

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第2章 テレビ産業の海外進出


<1.テレビ輸出の展開>
 当時(1950年代末)タイ、スウェーデンなどに対しては既に年間数万台が輸出されていた。1957年の電振法でも、テレビは輸出を伸ばすものとして位置づけられていたが、一方では技術的な面(テレビの型の違い等)が輸出の障害となっていた。
 そうした中、対米輸出の先駆者的役割を担ったのが、ソニーのトランジスタ・テレビであった。当時アメリカでは「17型以上でなければ成功しない」という概念があったが、最初からアメリカ市場を視野に入れていたソニーは、それを打ち破ることに成功した。また当時のアメリカ市場は完全に成熟しており、白黒テレビは買い替えや二台目の需要が中心であったため、ポータブル型のテレビの需要があったことも成功した理由の1つと考えられる。
 日本の各メーカーはソニーに続いた。1962年には日本コロムビア・松下が、63年には三洋・東芝・三菱各社が輸出を本格化した。こうした日本製小型テレビと現地メーカー型テレビとの対抗が見られたが、日本製小型テレビは、1965年には約100万台でシェア11.4%にまで達した。しかしこれが「輸出秩序の確立」の問題になる。アメリカ電子工業会は「国防産業に重大な脅威を与える」として、輸入制限措置を要求。価格、品質両面からの輸出秩序の確立を図ることになった。テレビの対米輸出は、はじめから管理貿易的な要素を持っていたわけである。
 
<2.国内市場の成熟と製品技術革新の進展>
 他方、日本国内でもアメリカ市場同様、買い替えもしくは二台目需要が増えた。それに伴い、新しい製品革新や多様化が目指された。その一つがトランジスタ・テレビであり、日本では早くからNHK技研で研究が進められてきた。各メーカーとの緊密な連絡のもと、トランジスタ・テレビの研究は行われていった。
 1959年には東芝・日立が、61年にはシャープ、62年には三洋・早川・ビクター・八欧などがトランジスタ・テレビを発売。けれども成功したのは早くからトランジスタ・テレビに目標を据えていたソニーくらいで、各社とも国内市場での売り上げは伸びなかった。
 しかし、小型テレビやセカンドテレビの需要があることに変わりはないため、従来通りの真空管方式の小型テレビも発売された。このようにして、当初14型に集中していた日本のテレビ生産は、小型を中心にしながら、それ以外のタイプの比率を高めていくことになった。後の各社の競争の結果、日本のテレビの型別構成は60年代前半から半ばにかけて、12型・16型・19型の3タイプの鼎立状態となった。

また、このような国内市場の成長率の鈍化は、販売面でも大きな問題を引き起こした。卸店は系列化の中で経営の自主性が弱まり、メーカー側の押し込み販売を拒否できない状況にあり、況にあり、無理な販売競争を小売店に対して行うようになっていった。小売店もリベートを期待して実力以上の仕入れを行い、その結果大量の在庫・資金負担増を招いた。これに対し松下はじめ各企業は、月販制度の改善などを行い、財務状況を改善させていった。
 他方この時期の流通面のもう一つの特徴としては、デパート・スーパー・大型家電専門店などの非系列大型店の台頭が挙げられる。これらはメーカーの現金正価を採用せず、自主的に価格を設定する「正規販売制」などを実地し、家電製品の企業間競争を活発にする効果を持っていた。
 
 以上、1960年代前半の日本のテレビ産業では、一方で国内市場が成熟するとともに、他方では輸出市場が伸びていった。国内市場では、市場の成熟に伴い小型テレビや大型テレビ、トランジスタ・テレビの登場など製品差別化をめぐる競争が行われた。また市場成長率の鈍化を背景に、流通網の再編も行われた。
 他方アメリカ市場では、それまで日本のテレビ産業が特化してきた小型テレビのセグメントが成長し始めていた。ただしこの輸出産業化は、必ずしも日本の国際競争力の強さを示すものではない。それ以前にもアメリカでは小型テレビの市場の可能性を探った時期があり、結果的に失敗した経緯がある。その当時に輸出をしていれば、おそらく日本がこれほどの成功を収めることはできなかったであろう。この段階における日本のテレビ産業の競争力は、良いタイミングに恵まれた状況のもとでの、一部の市場における日本の価格競争力にすぎなかったのである。




第三章 カラーテレビの開発と普及

<1.カラーテレビの開発>
 1928年、イギリスのJ.Bairdが機械式カラーテレビ(以下CTV)の実験に成功。40年にはアメリカ・CBSが送像側に三原色回転円板と解像管を使って初めて電子式のCTVを完成させた。51年には世界で初めてのCTV正式放送が始まる。53年、FCC(Federal Communication Committee)は、NTSC(National Television System Committee)からの白黒テレビとの両立性を持つCTVの方式を標準方式として採択。以後このNTSC方式でアメリカのCTV放送は行われることになった。
 日本ではCTVの研究は戦後になってから行われるようになった。1957年「カラーテレビジョン調査会」を発足。白黒テレビとの両立性を求め、日本はアメリカのNTSC方式にならうことにした。
他方1957年、機器の国産化を目指して「カラー受像管試作委員会」を設置し、公共の各研究機関やメーカーの共同でカラーブラウン管の試作を行うことにした。この委員会の構成は、電波技術協会が中心となり、通産省重工業局・同電気試験場・郵政省電波管理局・NHK・ブラウン管メーカー(東芝、日電、日立、松下、日本コロムビア、神戸工業、三菱)・部品材料メーカー(旭特殊硝子、大日本塗料、古河電気工業、大日本印刷)・学識経験者などから成り立っていた。以上のことから見て分かるように、各企業が個々に独自に研究を進めるのではなく、共同で研究を進めるべきであるという意向を汲み取ることができる。日本におけるCTVの研究開発という点では、この共同研究はいくつかの意義をもっていた。第一にカラーブラウン管の研究開発自体について言えば、各企業の自由な行動に任せておいた場合より早く、ある程度の開発に成功したことは確かである。
第二に、共同研究はカラーブラウン管の部品や材料の国産化もともなっていたことである。輸入技術でありながら、有機的な産業連関を早くから形成し、電子管、印刷、鉄鋼のいずれの業界にとっても自己技術の革新への戦いを喚起した。しかし部品の生産がうまくいかず、量産化が進まなかったというマイナスの面もある。
第三に、この共同研究が当時の主なブラウン管メーカーを全て網羅した研究であったことである。アメリカではRCAだけが長期にわたってCTVの初期に事業を継続したのに対し、日本では多くの企業が当初からCTV開発の競争を展開したことになる。これによりアメリカに比べてCTVの普及までの期間がかなり短縮された。産業発展のスピードの促進に繋がったわけである。
ただし技術的な面については、この共同研究の効果を課題に評価することもできない。日本各企業(東芝・日立・日電・三菱)は、アメリカRCAとのノウハウ契約を結び、結局外国技術への依存はぬぐえなかった。その点でいえば白黒ブラウン管の時と変わりはないといえる。製品技術の面では、まだ日本はアメリカなどに追いついてはいなかったのである。
<2.カラーテレビの普及>
 各メーカーは1960年に、カラーテレビの本放送開始にあわせてCTVの市販を開始するが、その普及は容易ではなかった。当初のCTVの価格は高く、その割にカラー放送の時間が短く内容も乏しかった。良い番組が少ないからセット需要が伸びず、需要が伸びないからセット価格も下がらないという悪循環があった。アメリカでもそれは同じで、1954年~64年の10年間での普及率は、わずか2.9%にすぎなかった。
 CTVが普及しない一番の理由は「価格」であった。日本では1959年の調査によると「10万円なら買う」という層が一番多かったのに対し、当時のCTVは17型で約40万円、21型で約50万円であった。いかにこの価格を下げるかが各メーカーの課題となった。しかし値下げは困難を極め、各社とも「損をして売っている」状態が続いた。
 またCTVの普及のためには、普及型を統一して取り組むべきであるという意見もあった。CTVの場合には、白黒の場合と同じように機種を統一しようという意図は各メーカーや業界団体、調査会などには明瞭に伺えるのだが、結果としての統一は白黒の時ほど協力ではなく、したがってその効果も白黒の時ほどではなかった。
いずれにせよCTVの価格はそう簡単には下がらず、それどころかアメリカからのCTVが日本市場に進出してくれば、初期段階の日本のCTV生産はかなりの打撃を受ける可能性まであった。この危険性を回避したのが通産省の政策であり、国産擁護の立場から輸入を見合わせることにした。CTVが自由化品目の対象となったのは1964年になってからであった。
 しかし、国際競争はむしろ日本のCTV生産にとってはプラスの方向に働き始めた。アメリカからの需要である。日本のCTVの輸出は1964年から始まり、同年17千台、65年43千台、66年267千台と急激に拡大した。アメリカからの受注は日本メーカーにとっては幾分外的な事情によるものであったが、その基礎には日本のCTVが製品の性能と価格の両面において改善を重ねてきたということがあった。
 他方、カラー放送の点でも、1964年には全国を上回る高規格マイクロ回線が整備され、ほぼ全国の都市にカラー中継が可能となった。65年にはカラー放送時間が一日延べ11時間(NHK)に延長され、これら環境の好転がCTV量産へと繋がった。量産はコストダウンを可能にし、16万円台の16型など、1インチ1万円が実現した。またこの時期における個人所得の増加も著しく、CTV普及が進むことになる。
 これら日本のCTV普及のテンポは、アメリカを凌ぐ早さであった。それを規定する要因の一つが生産単価の定価のテンポの違いであった。アメリカでは当時唯一といっていいカラーブラウン管メーカーのRCAが、他社向けのブラウン管価格を引き下げず利幅を拡大する政策をとった。またアメリカでは必ずしも低価格モデルが好まれたわけでもなく、むしろ高価格モデルのほうが好まれたという状況もあった。
 これに対し日本では、主要製品の価格は年々低下していった。しかしこの低下は、コスト低下との兼ね合いがどの程度まで対応していたかという点については不明な点があった。1966年、公正取引委員会はCTVの価格があまり値下がりしないところから業界に対する独禁法違反容疑を深め、調査を開始。テレビの価格協定の嫌いを指摘した。
 
 このようにして1960年代の後半から、日本でも本格的なカラーブームが起こり、国内市場は急速に拡大していった。このCTVの開発・普及の過程を振り返ってみると、白黒テレビの場合に行われたことがここでも繰り返されたことが分かる。NHK技研や電波技術協会を中心とする共同研究、通産省による国内市場の保護、外国技術への依存、普及型の試み、企業間競争による価格低下などである。
 白黒テレビの時と大きく違うのは、輸出が初期の需要の大半を形成したということであった。小さい市場という初期条件の制約の突破は、海外に進出することで行われたのである。アメリカではCTVの研究開発と普及は、ほとんど企業の努力のみにかかっていた。しかも多くの企業は撤退し、RCAだけが赤字を継続しながら行っていたのに対し、日本は官民一体での共同開発を行った。普及活動においても、多くの企業が激しい競争を行っていた点もアメリカと異なる点である。また、カラーブラウン管の共同研究やブラウン管サイズの統一といったある種の人為的操作が、産業全体のスピードを速めたことも背景にあろう。これらが日本におけるCTVの開発、普及の期間を短縮するのに寄与していると考えられる。
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